野地秩嘉著「渡辺晋物語」(3) ワーナー・パイオニアは当初ナベプロの新人歌手のデビューレコード会社 

わたしの城下町 ワーナー・パイオニア

 「渡辺晋物語」には渡辺プロダクションの出資先であったレコード会社のワーナー・パイオニアについても詳しく書かれてあった。昭和40年代初頭には日本で外資との合弁レコード会社がいくつも設立された。この当時、途上国の日本では100%外資の子会社設立は認められていなかった。それで合弁でCBSソニー東芝EMI、日本グラモフォン、日本フォノグラムが設立されたという。

 この流れで渡辺プロダクションも米国のワーナー・ブラザーズと合弁でワーナー・パイオニアを設立する。出資の比率はワーナー・ブラザーズ50%、パイオニア25%、渡辺プロダクション25%であった。

 渡辺プロダクションは他のレコード会社からの反発を見越して、「ヒットの見込めるベテラン歌手は入れずに、新人だけでスタートする」ということにしたという。その中で小柳ルミ子氏とアグネス・チャン氏が起用されたという。

 小柳ルミ子氏のデビューは、当時国鉄のディスカバー・ジャパンのキャンペーンに乗って日本再発、城下町をキーワードに曲が作られ、「わたしの城下町」が180万枚の大ヒットとなった。この時、小柳氏はワーナー・パイオニアではフランク・シナトラレッド・ツェッペリンロバータ・フラックを抑えてトップアーティストになったという。

 真理の場合は最初にCBSソニーにスカウトされ、そこから渡辺プロダクションを紹介されて入籍したためレコード会社はCBSソニーであったが、これが渡辺プロダクション所属が先であったなら、真理のデビューレコード会社はワーナー・パイオニアになっていたのであろう。