野地秩嘉著「渡辺晋物語」(4) 創業26年目に初の申告所得マイナスに 真理ちゃんの再デビューの渡辺ワークショップの時期
「渡辺晋物語」によると、渡辺プロダクションの1980年度の申告所得は創業26年目にして初のマイナスに落ち込んだ。この年から既に社内改革が断行されてはいたが、改革はドラスティックには出来なかったという。
グループ会社のアポロン音楽工業から社長室長付で社内改革を推進した林秀樹氏によると、収支計画書の徹底と、なかなか目の出ないタレント、ベテランタレントの扱いで、これ以上の投資をするのはむだじゃないかとの提言もしたという。
このような時期、真理は丁度、再デビューの真っ只中にいた。真理のために新たに設立された傘下の音楽事務所「渡辺ワークショップ」に1979年5月1日に移籍し、真理は再デビューを試みる。しかし、期待していたような人気は回復できなかった。そして、1981年3月12日、真理は事務所を辞めてしまった。
週刊平凡81年4/9号によると、80年の暮れに、今一つ伸びないので、初心にかえって出直したいとの申し出があり、事務所に対する不満からではなく、もう一度やり直すためのフリーであったとされている。
しかし、前述のような雰囲気の社内改革が断行されていた中で、当時グループ会社が40社以上あった渡辺プロダクションのリストラクチャリング(企業再構築)が断行されていたようで、渡辺ワークショップも真理もその波をもろに被ってしまったことも、真理の再デビューの失敗につながったのかもしれない。タイミングが悪かったのだ。
渡辺ワークショップの所属タレント推移(1980~1982年)
昭和56年(1981年)
野地秩嘉著「渡辺晋物語」(3) ワーナー・パイオニアは当初ナベプロの新人歌手のデビューレコード会社
「渡辺晋物語」には渡辺プロダクションの出資先であったレコード会社のワーナー・パイオニアについても詳しく書かれてあった。昭和40年代初頭には日本で外資との合弁レコード会社がいくつも設立された。この当時、途上国の日本では100%外資の子会社設立は認められていなかった。それで合弁でCBSソニーや東芝EMI、日本グラモフォン、日本フォノグラムが設立されたという。
この流れで渡辺プロダクションも米国のワーナー・ブラザーズと合弁でワーナー・パイオニアを設立する。出資の比率はワーナー・ブラザーズ50%、パイオニア25%、渡辺プロダクション25%であった。
渡辺プロダクションは他のレコード会社からの反発を見越して、「ヒットの見込めるベテラン歌手は入れずに、新人だけでスタートする」ということにしたという。その中で小柳ルミ子氏とアグネス・チャン氏が起用されたという。
小柳ルミ子氏のデビューは、当時国鉄のディスカバー・ジャパンのキャンペーンに乗って日本再発、城下町をキーワードに曲が作られ、「わたしの城下町」が180万枚の大ヒットとなった。この時、小柳氏はワーナー・パイオニアではフランク・シナトラ、レッド・ツェッペリン、ロバータ・フラックを抑えてトップアーティストになったという。
真理の場合は最初にCBSソニーにスカウトされ、そこから渡辺プロダクションを紹介されて入籍したためレコード会社はCBSソニーであったが、これが渡辺プロダクション所属が先であったなら、真理のデビューレコード会社はワーナー・パイオニアになっていたのであろう。
野地秩嘉著「渡辺晋物語」に真理ちゃんの記述が (2) 財界人が集まる「歌う会」で真理ちゃんバックコーラス
引き続き「渡辺晋物語」の内容を見ていく。渡辺氏は芸能プロダクションの社長には珍しく財界人とのつきあいを重んじていた。芸能という職業の地位の向上を目指していたこともその要因であったという。ソニーの盛田昭夫氏が1974年に結成した財界人の勉強会のKSK(経済社会研究会)に渡辺氏はすすんで参加したという。
また、渡辺氏はヤクルト社長の松園尚巳氏といっしょに財界人が集まる「歌う会」を始めていた。会場は渡辺氏の広尾の自宅であった。歌のバックはカラオケではなく、生のピアノ伴奏。それも、宮川泰氏、猪俣公章氏、平尾昌章氏といった一流の作曲家を使い、司会は高橋圭三氏であったという。
そして、バックコーラスはなんと真理や小柳ルミ子氏が担当したこともあったという。KSKよりも「歌う会」の方の人気が上がり、噂を聞いた本田宗一郎氏も顔を出したという。
野地秩嘉著「渡辺晋物語」に真理ちゃんの記述が (1)「恋する夏の日」の企画会議
正月早々、時間があったので野地秩嘉著「渡辺晋物語」を読んでみた。一代で日本を代表する芸能プロダクションを築き上げた渡辺氏についての本であり、真理についても何か書かれていると思ったからだ。
クレージーキャッツやザ・ピーナッツ、キャンディーズなどの記述が多かったが、真理についてのエピソードもあった。それは、毎週金曜日の午後に開かれる企画会議であった。当時真理担当の音楽ディレクターであった中島二千六氏が語っている。
中島氏が「恋する夏の日」の企画説明を渡辺晋社長の前で行った時、真理がテニスコートにたたずんでいる光景を事細かく説明する。それに対して渡辺氏は、「このテニスコートだが、場所はどこだ。軽井沢かそれとも山中湖か」と聞いたという。
中島氏はまさかテニスコートの場所まで特定しろとは想定していなかった。そして、覚悟を決めて「社長、もちろん軽井沢です」と答え、「そうか。そうだろうな」と渡辺氏は企画を受け入れたという。
しかし、渡辺氏は続けて「歌詞は一部やり直しだ。このままだと真理にボーイフレンドが実在することになり、それじゃダメだ。ファンは真理が恋人を募集していることを望んでいるんだ。だから、彼女がテニスコートで待っている相手はあこがれている人物にしておいた方がいい」と修正を命じたという。
それでも中島氏によると、「恋する夏の日」が、企画会議の中で一番短時間で切り抜けられた楽曲であったという。
にっかつ映画「魔性の香り」、真理ちゃんのスタントなしの本気の演技
bilibiliに真理が出演したにっかつ映画「魔性の香り」の1シーンがアップされている。橋の上から川に飛び込むシーンである。水面に着水する時の真理の顔もはっきり映っているため、スタントなしの本人の演技である。
真理は運動神経ゼロで泳げないということも有名であったが、スタントなしでよくやったと思う。この件について週刊大衆85年12/23号で「ラブシーンより苦労したのは川の中へ投身自殺を図るシーンでした。水恐怖症なんです。それも8mの橋の上から飛び込むんですよ。水泳教室に1週間通って特訓を受けて挑戦したんです」と真理は語っている。